ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

ここの下には石油の海が眠っている、すべて私のものだ─。

石油の海は、欲望の海。石油が生み出す利益を独占しようとする人々の争いの果てには、文字通り血の海が。

there will be blood.

かくてそこには血の海ができた。

唯一の良心であったはずの血縁すら切り捨てて。

油田の奪い合いにあけくれる20世紀初頭の西海岸。掘っ立て小屋と、木組みの油井を作って「開拓」していく人々が、寡黙に描かれていく。

ヱヴァンゲリオン新劇場版:破

「思い出演出」は見るからに過剰で、過剰さで迷彩されているのは、恥ずかしいほどに率直な愛の言葉。

「破」がテレビ版と本質的に違うのはただ一点、その瞬間だけ。

それ以外は、描き直されたシーンも書き直されたプロットも形を変えた使徒も3号機に乗ることになったアスカや新キャラであるメガネ娘さえも、クライマックスに一言だけ付け加えられた言葉のもつ新しいメッセージをカモフラージュするデコイ、組み替えられた形状のパターンに過ぎない。

「来い!」

シンジが叫び、レイが応えて手を伸ばす。

この率直過ぎる愛の呼びかけとそれに対する応答こそが、唯一原作から付け加えられた本質的な変更ではないかと思う。

意図的に描き混ぜられた記憶のカオス。懐メロや、終わらない夏の情景が醸し出すノスタルジアが、この映画の時間軸が子の記憶と父の記憶との混線の上に成り立っていることを証明している。

父が担っていた「力」という役割は、覚醒を契機に子に引き継がれる。

未来を手繰り寄せる強引さとともに。

ヱヴァンゲリオン新劇場版:序

10年経って、すっかり大人になった僕が感情移入したのは、葛城ミサトだった。

エヴァというと、ブームを起した際物扱いを受けている向きもあるかもしれないが、
改めて見ると、世代間の相克・葛藤が刻み込まれた、もの凄くストレートな人間ドラマだった。

そう考えると、NERFという組織の指揮系統(ゲンドウ→ミサト→シンジという流れ)は、
同一人物の進化の樹形図を見ているようでもあり、更に10年後、僕らはゲンドウに感情移入するようになることは想像に難くない。

確かに10年前、若く、世紀末独特の終息観に青春を晒していた僕らは、
現実の理不尽さや不条理さを、いかにもシンジ的な逃避行動で切り抜けていた。
「どうせ世界は終わりゆく」そんな感覚がどこかにあった。

しかし当然世界は終わらず、生き残って現実と向き合わなければならなかったこの10年を、ミサト的に戦ってきたように思う。
世紀末で終わっていたはずの世界に一人、ぬか喜びと自己嫌悪を繰り返しながら、歯を食いしばって生きてきた。

ミサトのカットが多めに描き足されているような気がしたのは、そんな贔屓目線があったからかもしれない。

審判

オーソン・ウェルズの「審判」。

なぜ僕は、いつも理由や目的がわからず間違うのでしょう?

そんな主人公の実存主義的な叫びで、昔原作を読んだときに感じていた主人公ヨーゼフ・Kの「間違い」について思い出した。
彼はいつも正論を信じ口を開きながら、その場の怒りや欲情や度を越した正義感から判断を誤り、事態を悪化させていく。
幸運なめぐり合わせや、好意的な協力者すらも裏目となりKを追い詰めていくが、それらのきっかけは彼自身の言葉や行動に起因しているかのように思えるカフカ的不条理。

K「僕に責任が?」
*「無関係とでも言うような口ぶりだ」

K「僕の良心には全く悪いところはありません。ご心配なく」

DVDの付録でついている、撮影監督のインタビューが面白い(字幕の日本語がわかりにくいのが難点)。
オーソン・ウェルズがいかにしてロケ地を選んでいったか。どのような照明効果を演出したか。
その一端が語られる。

やはり印象的なのは、団地の前を足の不自由な女性とKが歩きながら話すシーン。
あぜ道を、足を引きながら、重い荷物を引きずり歩く女性。
このシークエンスはユーゴスラビアで撮影されたそうな。
撮影監督が語るオーソンの照明効果は、素人目には判然としない。

引き気味のフルサイズと、他者の「目」のクローズアップを意識的に交錯させるモンタージュ構成は、ロケ地と撮影技法もあいまって映画全体に自意識過剰的な閉塞感を与え、ストーリーの主題を裏打ちしている。

ロケ地の多くは閑散とし広大で疎外されたような印象を与え、不条理から、パノプティコン、「全ての場所が裁判所に属している」、実存主義、ヌーベルヴァーグ、アメリカンニューシネマと連想させる。

エンディングは気狂いピエロ。
画家を訪ねるシーンは地獄の黙示録。
冒頭からのプロットにはブラジル。
影響関係を連想しつつ。。

崖の上のポニョ

少年は、崖の上の隔離されたような家と、ふもとの(老人ホームが併設された)保育園とを往復する退屈な日々を送っている。

少年にとって、人間の住むこの世界は、死に行くイメージに満ちた世界。
止まった時、変わらぬ日常。老人と子供で構成された世界。戦い続ける父親は常に不在だ。

海は少年の夢であり、外界であり、希望であり、父のいる場所(自らが進む場所)。
その外界からやってきた「異形」の者=ポニョは、海と人間とのあいの子であり、ひたすらに変化し、進化・成長していく。
その原理は愛。
愛の力に満ちた少女と出会い、少年の世界がはじめて生命を帯び始める。少年は自分の船で海へと漕ぎ出すことができ、若い男たちが力を合わせて難民を導き、赤子を伴った夫婦が現れる。にわかに物語の世界は「生」のイメージで満たされ始める。

そして少年が、変化を続ける異形である少女を受け入れ、
母親の管轄する変化の無い無害な世界を離れていく予感の中で、
物語は哀愁に満ちたハッピーエンドを迎える。

クライマックス、海の母と少年の母が、静かに語り続ける後ろ姿の意味は、
そういう観点から主人公が少女では表現しえなかったのだと考えると、監督の丁寧な演出にひたすら感服せざるを得ない。

子供がどう観るのかは正直よくわからない。
子供を持つ母親のための、悲しくもリアルなメッセージ。

    
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